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日本連絡会議ニュース

 

 

 

リタ・バウアさん(フィリピンBAYANの女性闘士)が逝去する


フィリピンの反帝民族解放―民主主義革命の一翼を担う、BAYAN(新民族主義者同盟)のリタ・バウアさんが2月3日に逝去されました。79歳。

私たちがフィリピンを訪問し、現地でフィリピン人民の反帝・解放闘争との交流と連帯をする時、絶えずコーディネイトしてくださいました。また日本政府・資本の国家権力からの入国妨害を跳ね返し、たびたび訪日し、日比の人民連帯をされてきました。2010年の横浜APEC反対の現地闘争や国際会議にも、BAYAN代表で参加いただきました。

彼女の力強いシュプレヒコールやアピールと戦う態度は、希望と勇気、そして闘いへの情熱を、日比人民の間に与えてくれるものでした。謹んで、哀悼の意を表明するものです。

以下に、フィリピン・BAYANの公式の追悼文を掲載します。

リタ・バウア、万歳!日米帝国主義打倒!永遠の国際連帯を!団結した人民は決して負けない!われわれは、勝利する!


生涯にわたる現役活動家、国際主義者であったリタ・バウアを追悼する

新民族主義者同盟(BAYAN
2022年2月6日

BAYANは、長い闘病の末に、さる2022年2月3日に逝去した私たちの最年長の役員、リタ・タギノッド・バウアに最大の賛辞を送り、最も戦闘的な敬意を表するものである。私たちは、彼女の死を悼むと同時に、フィリピン民衆の闘いと国際反帝国主義運動への彼女の多くの貢献を称える。私たちは、国内外の被抑圧大衆に対する彼女の数十年にわたる奉仕に感謝している。私たちは、世界のさまざまな地域から寄せられた同情と、リタがBAYANで活動している間に非常に多くの人々の生活に触れたという事実に慰めを感じている。

リタが民族民主主義運動の活動家になるには長い道のりがあった。彼女はケソン・シティーにあるセント・ジョセフ・カトリック・スクールで教育を受けた。70年代初頭、彼女は自由農民連合とキーローという青年グループの一員として、ネグロスおよびミンダナオの農民たちと共に活動した。また、ビクトリアの砂糖きび労働者のピケットラインを訪問し、教会を基盤とする他の活動家たちとも交流するようになった。リタは、いわゆる「洗脳」や「陰謀」ではなく、私たちの民衆の状況こそが、活動家や革命家を生み出すということの生きた証明であった。

タリッツは専従活動家になる前には修道女だったという都市伝説がある。兄のホセによれば、幼少の頃、リタは確かに修道女になりたかったという。リタの政治への関与は、米国に支援されたマルコス独裁政権に抵抗するさまざまな教会グループに根ざしていた。彼女はかつて、セント・ジョセフ・カレッジとセント・スコラスティカ・カレッジで教鞭を執っていた。彼女はセントジョセフでの進歩的な修道女たちとの交流を通じて、民族民主主義運動の活動家になった。彼女は国際資料通信センターの一員としてローマに赴いたこともある。彼女は「正義と平和のためのエキュメニカル運動」や「国際問題研究のためのエキュメニカル・パートナー」で活動していたこともある。

リタの活動への旅は、教会の連帯組織から、民族主義者同盟などの反独裁の連合組織を経て、BAYANに至った。1986年の和平交渉の際には、ボランティアとしてフィリピン民族民主戦線の事務局で活動した。

リタは、マルコス独裁政権時代から現在に至るまで、国際連帯活動に従事してきた。また、BAYANの全国執行委員会のメンバーに選出され、全国会計を担当し、BAYANの初期から現在に至るまで、最も長くスタッフ・役員としてその活動の一翼を担ってきた。

リタは、FMSGビルから、シカトゥナ・オフィス、そして現在のエリスリナ・ビルに至るまで、BAYANのさまざまな全国事務所で常に力強くその存在感を示してきた。彼女は、海外からの訪問者のための非公式の歓迎委員であった。彼女はしばしば、外国から来たフィリピン人活動家や連帯関係にある友人にオリエンテーションやフィリピンの近況報告を行ってきた。2000年代前半のフィリピン系アメリカ人の活動家たちとの彼女の活動は、最初の在外支部として新たに設立されたBAYAN米国支部の若いリーダーたちを訓練するのに役立った。

国際活動において、リタは私たちの同志や友人に、フィリピンの近況やフィリピン民衆の闘いへの支援の必要性について、常に最新情報を提供してきた。Eメールからフェイスブックのチャットまで、常に最新情報を提供することで、タイムゾーンの違いを越えて他の進歩的な人々と関係を維持することができた。リタは、世界の反対側にいる人々とチャットをするために、夜遅くまで仕事をすることもあった。その長く実りある人生の晩年においても、彼女の活動への献身は模範的なものだった。彼女は、動員の際にはBAYANの旗を高く掲げるようにとよく念を押し、さまざまな取り組みで私たちがフィリピン民衆の闘いをうまく表現できるようにした。彼女自身、抗議行動ではBAYANの旗を誇らしげに掲げていた。

リタは多くの階層に知られていた。BAYANの一員として、大衆行動や多くの組織会議のなか、さまざまな加盟団体と連絡を取り、チェックしていたからだ。彼女は、各階層ごとの目標について尋ね、動員の後にはフィードバックを提供した。彼女は80年代以降、とりわけ青年活動家に注意を払っていた。なぜなら、青年こそが民族的社会的解放に向けたフィリピンの闘いの未来であることを知っていたからだ。彼女は、活動家として学んだ良い実践や慣習を、若い活動家たちと共有し、伝えることを心がけていた。さまざまな世代の青年活動家たちからなるタリッツの「生徒」たちはその後、民族民主主義運動のリーダーやオルガナイザーになっていった。

また、リタが激しい態度の持ち主であったことも、活動家の間ではよく知られている。いわゆる「厳格で断固たる」タイプであった。集会で演説するとき、彼女は並外れた炎のようなものを持っていた。両手でマイクを持ち、群衆と共に声をあげる姿は、まさに「熱烈」たるものであった。しかし、彼女と一緒に仕事をしたことのある人たちは、彼女が心の奥底ではお人好しであることも知っていた。同志と一緒にいることを楽しみ、子どもたちが好きで、シンプルに生き、活動家としての多忙なスケジュールの合間にシンプルな楽しみを享受していた。健康的な生活を提唱していた彼女は、フィリピン大学のアカデミック・オーバルの周りをジョギングし、若いジョガーたちに恥じないような持久力を持っていた。

タリッツは、アカデミック・オーバルの周りを走るのと同じようなアプローチで人生と活動に取り組んでいた。彼女は自分が先にゴールするために疾走するわけではなかった。彼女のそれは民族解放のための長いマラソンだった。50年以上にわたって、彼女はこの偉大なマラソンを、驚異的な持久力と安定したペースで走り続け、心をこめて民衆に奉仕したのだった。リタの精神は最後まで強くあり続けた。最後の日、彼女は病院のベッドに座り、自分が闘い続けていることを私たちに伝えるかのように、こぶしを挙げた。親愛なる私たちのリタは眠りにつき、私たち、とりわけ若者たちがバトンを受ける時が来た。彼女の遺産は、私たちの心の中に、そして勝利まで闘いを続ける生き生きとした戦闘的な大衆運動の中に生き続けることだろう。

リタ・バウアの思い出に、万歳!
フィリピン人民の闘争、万歳!
国際連帯、万歳!

リタ・バウアさん

awcjapan21@yahoo.co.jp

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