全教組忠南支部からの報告 |
第4号 2008年1月29日 毎週火曜日発行 |
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正しく見る明成皇后弑害事件 扶餘女子高等學校 李禮善(歷史)
I. 序言 - 19世紀の世界史は帝國主義時代 - 東洋は帝國主義侵略によって、植民地として再編成される受難をこうむる様になる。 - 朝鮮も、外的には帝國主義の侵略を防ぎながら、内的には反封建運動を展開するという課題を抱える様になる。 - 一方、日本は明治維新以後引き続き征韓論が登場 - 朝鮮の開港以後、西洋列强達が朝鮮を手中にする為の對立が深刻化 - 朝鮮に於いて起った壬午軍亂, 甲申政變, 東學農民運動, 淸日戰爭, 三國干涉 等はこれと関連して起きた。 - '明成皇后の死'についての正しい理解は、當時の東アジアの歷史を正しく認識する上で重要な契機となる。
II. 明成皇后の生涯 - 1851年 麗州で 閔致祿の娘として出生 - 家門は、第3代 太宗の王妃, 第19代の肅宗の王妃を排出した名文家門であったが、當時には沒落した狀態であった。 - 9歲で父親を亡くし、親戚の家で成長 - 1867年 16歲で王妃となる(高宗の婦人) - 1871年 長男が生まれる(5日で死亡) - 1874年 二男が生まれる(純宗) - 興善大院君との權力鬪爭の中で、朝鮮の政治に關與 - 1894年 淸日戰爭, 東學農民運動 - 1895年 下関條約, 三國干涉(ドイツ, フランス, ロシア) - 1896年 10月 8日 景福宮 玉壺樓に於いて、日本人により弑害される。
III. 乙未事變(明成皇后の死、きつね狩り) 1. 弑害の現場 - 1895.10.8、明け方5:30 ソウル景福宮、日本の浪人が襲擊 - 宮廷に侵入した日本の浪人達は、迷わず王妃の居處である坤寧閤へ直行 - 坤寧閤にある玉壺樓から宮女達を構わず引っ張り出す - 當時、宮廷の侍衛大將は米國人、ダイ(William McE Dye) - 當時の狀況をロシア人 サバティン(A.J. Seredin-sabatin)が證言 “ 玉壺樓の板の間には20~25名の洋服を着た日本人達が、日本刀で武裝して占據しており、その者達は部屋の中を歩きまわり、女人達の髪をわしづかみにして、外に投げ落とし、足でけ飛ばした。 ” - 現場にいた宮女の證言を土臺にして米國公使館が作成した報告書(1895. 10. 10) “騷亂な事態で、宮女達が王妃の部屋に集まっていたが、日本人の何人かが部屋に押し入り、宮女達をむやみやたらに靴足で胸をけり、踏み付け、刀で刺した。王妃も宮女に變裝していたが、容貌が似ている他の宮女達と同時に殺害された。”
2. 事件の捏造と証拠隠滅 - 犯人達の證據隠滅は現場を目擊したひとりの侍衛隊の證言で確認可能 “ 女人達が殺害された直後に 頭目はポケットから一枚の寫眞を取出して確認した後、屍身の中からふたりを外に出すように部下達に命令した。引き続き、屍身に石油を浴びせて火を放った。この二つの屍身の内のひとつが王妃であった。この様にした目的は王妃の全ての痕迹をなくしてしまう為であった。” - 屍身を燃やした場所は坤寧閤の近くの繁みで、他の屍身は宮廷の外に移して秘密に處理された。 - この後、三浦梧樓公使は事件の捏造を試圖した。 - 本來 三浦梧樓公使の計画は、次の様な事件捏造を計画した。 - 卽ち、王妃をなきものにした後、主謀者は興善大院君で, 弑害犯は朝鮮人の訓練隊だという事に - ところが、訓練隊の解散が豫定より 10月7日に決定され、次の日の明け方に繰り上げた。 - 脚本どおり、8日の明け方3時30分に宮內府顧問官の岡本柳之助が率いる武裝した日本人と興善大院 君が宮廷に向けて出發 - 最初は夜に弑害しようとしたが、明け方になったので目擊者達が出てきた。 - 三浦梧樓公使は、“興善大院君と訓練隊の主謀”だという最初の主張を、日本政府と関連のない事とし て 事件を終わらせようと外交的な努力と言論弘報をした。 - 米國, 英國, ロシア等の各國からは眞相糾明を要求したが、直ちに日本との關係惡化を憂慮して沈黙を一貫 - 日本は三浦梧樓公使をはじめとする関係者47名を召還して裁判に回附させた - ところが、この者達は日本に撤收させ様という意圖で進行され、明くる1月に広島で開かれた裁判に於いて、證據不充分で全員が釋放され、事件は迷宮となり歷史の中に消えた。
3. 弑害犯は日本政府 - 明成皇后の弑害事件は、三浦梧樓公使の單獨計画で主導された事件ではない。 - しかも、三浦梧樓公使は赴任して一ヶ月にしかならなかった。 - 弑害を引き受けた浪人達は単なるヤクザではなく知識人であった。 - 總指揮者である柴四朗(しばしろう)は、米國ハーバードとペンシルベニア大學で經濟學を学んだ衆議院を歷任した人物だ。 - 堀口九萬一は東京大學法學部で学び、ブラジル, ルーマニア公使を歷任した。 - 以外に參與した人物たちは日本公使館員, 領事館警察, 日本正規軍,漢城新報社社長(安達謙 藏), 漢城新報主筆の國友重章 等であった。 - 日本はこれらの者達を動員して、當時複雜だった國際情勢を日本政府にとって有利に誘導する為に、緻密に計画し實行された事件であった事を、弑害犯達の面々を通して理解することが出来る。
IV. 日本が明成皇后を弑害した本当の理由 - 明成皇后を “閔妃”と呼ぶのは間違いである事 - 朝鮮に於いて、王と王妃は生存時には名前の代わりに尊稱を呼び、死後には諡號(おくりな)を呼ぶ事 - 1896年、王妃に諡號 ‘明成’が推尊され、正式な名前となった。 - 日本が明成皇后を弑害した理由は當時の國際情勢から推論が可能である。 - 1894年 日清戰爭で日本が勝利して朝鮮に於ける主導權を掌握した - 1895年 5月初め、ロシアがドイツ, フランスと連合して日本に壓力を加え、遼東半島を返せという事件を主導した。 - 當時、明成皇后は淸日戰爭以後に非常に强くなった日本の壓力に屈服して、日本公使の井上馨に対し政治には關與しないと約束していた。 - それにより明成皇后は親日內閣の代わりに親ロシア政策を敷いて親ロシア內閣を構成した。 - 乙未事變は當時複雜な國際情勢の中で、韓半島を掌握しようとした日本の計画で起きた事件である。 - 卽ち、三國干涉以後の韓半島に於いて、ロシアに主導權を奪われた日本はこれを取り戻そうと、その中 心に立っていた明成皇后を弑害する事となった。
V. 結語 - 朝鮮は19世紀末の激動期に、近代國家として跳躍する為に努力をしたものの、結局のところ日本と修好 通商條約を結んだ後、30年余りの1905年、日本に主權を剝奪されてしまった。 - 勿論 朝鮮は日本の朝鮮支配を望まず抵抗をもした。 -例をあげれば、崔益賢(チェイクヒョン)は日本政府に日本の罪16項目を提示し、東洋平和の為に日本がするべき事を提示した。 - 罪目の中で代表的なものは、1894年 宮廷を侵犯して破壞し掠奪を行こなった事, 明成皇后を弑害した事, 勝手に鐵道を敷き利益を奪った事, 條約を强制的に締結して主權を侵奪した事など。 - 日本の侵略行爲は終局には日本を破滅の道に導くものだという警告をしたりもした。 -東洋の平和の為に、日本は陰謀やまやかし事をやめて、東洋3國と連帶して西洋勢力に立ち向かって戦わねばならないと主張した。 - 當時、東アジアの平和と共存はこの様に弱肉强食の原理が支配する現實構圖を打ち破るときに可能なものだと考えられ、明成皇后弑害事件も日本の帝國主義的な屬性から始まったと理解するという事。 -今日、私達が明成皇后弑害事件を正しく理解する事は、21世紀の新自由主義を倒せる歷史の敎訓として再定立される事と関連がある事を知らねばならない。
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